医薬品の開発には、20年近くの長い年月と200−300億円の資金が必要です。また、基礎研究の段階で見つかった薬物が医薬品として世に出る確率は「3万分の1以下」です(図1;参考文献1)。何千種類もの化合物の薬効を一挙に解析する技術(ハイ・スループット・スクリーニング)や多種の化合物を効率的に合成する技術(コンビナトリアル・ケミストリー)、さらには、薬物と標的の相互作用を予測するイン・シリコ解析技術などの革新的な技術の導入にもかかわらず、最近新薬の発売件数が顕著に落ち込んでいます(参考文献2、3)。その理由の1つに主力薬品の特許切れ問題があります。この問題により製薬会社の収入が劇的に減少して、新薬開発への投資額が減らされているのです。このままでは、私たちの健康を守る新しい薬が生み出されない事となり、また、製薬企業はお金にならない希少疾患には目も向けない状況になる可能性もあります(参考文献2、3)。
医学・生物学の基礎研究をもとにした"夢の治療薬"の話が度々新聞や雑誌に掲載されます。しかし、私たちがそれらの候補物質を新薬として利用できるようになったという話はほとんど聞きません。どうして新薬が出ないのか?それは、多くの場合、ヒトを用いた臨床試験段階(図1)で失敗しているからです。ヒトと動物では体内の生理的な条件が異なります。そのため、薬物が思わぬ物質へと代謝されたり、動物実験で見られなかった副作用がヒトで発生したりします。
最近、新薬開発の停滞を突破する手段として、既存薬再開発(ドラッグリポジショニング)が導入されるようになりました。"新しい薬物"が医薬品となる可能性が低いのであれば、「これまで安全に使われてきた"既存薬(既承認薬)"を再評価して医薬品として使おう」という方法です。既存薬再開発には、図2に示した様々な利点があります。特に、アルツハイマー病のように世界中の研究者が束になってかかっても根治療法が見つからない疾病では、既存薬再開発によって、重篤症状発症を先延ばしにする薬の迅速な開発が可能になります(参考文献3)。
日本では、クロロキン、キノホルム、サリドマイドなど多くの医薬品の副作用が以前に大きな薬害を引き起こしました(参考文献4)。一方で、薬害のために消えた医薬品が既存薬再開発により「新しい薬」として再登場しています(図3)。
抗マラリア剤であるクロロキンは、眼底の黄斑障害により視野が狭くなるという重篤な薬害を引き起こしました。クロロキンの誘導体ヒドロキシクロロキン(プラケニル)は、皮膚及び全身性エリテマトーデス、関節リウマチ(自己免疫疾患)の治療薬として2015年から使われています。薬害を貴重な経験として用量を厳重に守り治療に使われています。
整腸剤であるキノホルムは、スモン病(Subacute Myelo-Optico Neuropathy、亜急性脊髄・視神経・末梢神経障害)を引き起こしました。最近、キノホルムがアルツハイマー病の原因物質ベータアミロイドを可溶化し、患者の認知機能の低下をくい止めることが報告されて臨床治験が行われました。また、その知識をもとにしてアルツハイマー病診断薬(PBT2)が作り出されました。
鎮静・睡眠剤であるサリドマイドは、強力な催奇形性(胎児に奇形を引き起こす作用)が見逃されて「妊婦のつわり」治療に用いられ被害が胎児に及びました(図4)。サリドマイドがハンセン氏病の急性症状の特効薬として、さらに、多発性骨髄腫の治療薬として承認されました。骨髄腫のようなガン細胞は栄養摂取用の血管を作ります(血管新生)。血管新生を阻害するサリドマイドは、ガン細胞への栄養供給を断つことでその成長を抑えます。胎児の成長においても血液を供給するために血管新生は必須です。サリドマイドによる血管新生阻害は、手足が成長しないという重篤な副作用を引き起こしましたが、その副作用がガンに対する良薬を生み出しました。
私の研究室でも既存薬再開発の手法を使って、認知症や記憶障害治療に使える薬を探しています。世界中の研究者は頑張っていますが、認知症の治療法や根治薬の開発は思うように進んでいません。そこで発想を変えて、認知症の重篤症状の発症を先延ばしできる薬を探そう、その薬があれば患者は家族といい時間を長く過ごすことができると考えました(図5)。私の研究室では、抗血小板薬であるシロスタゾールが「記憶」を維持する作用について研究しています。加齢や認知症などの疾病により障害される機能に「記憶」があります。「記憶」は自分の出自や歴史を支える"自分そのもの"です。また、認知機能の中でも記憶は他の脳高次機能の基礎であることから、記憶を維持する事はとても大切です。
目的地へ行くためには目標物を使って自分の位置を認識する必要があります。そして、「いま自分がどこにいるのか?」を知ることはヒトが生活するために重要な感覚です。認知症ではこのような「空間記憶」と呼ばれる記憶が影響を受けます。自分の居場所を知るための地図が障害を受けますから、現在地がわからなくなったり、目標物を使って家へ帰ることができなくなったります。
マウスの空間記憶の実験では、プールの中にあるゴールの場所を、目標物との位置関係を利用して覚えさせます(図6)。次に、覚えさせたゴールを取り除いてマウスを泳がせます。マウスは、ゴールがそこにあると思って、覚えたゴールの場所を横切ります。ゴールのあった場所を横切る回数が多いほどゴールの場所をよく覚えていた、つまり、記憶が良好と評価します。高齢マウスは若齢マウスに比べてゴールの場所を覚えるのに時間がかかります(図7右上)。また、ゴールを横切る回数が減っており、高齢マウスに記憶障害があるとわかります。そこで、高齢マウスにシロスタゾールを投与すると、若齢マウスと同じぐらいゴールの場所を思い出すことができました(図7右下;参考文献5,6)。
副作用により姿を消したサリドマイド剤などの薬が再開発され、また、血液サラサラ薬(シロスタゾール)が脳の機能を改善する薬として再開発されています。シロスタゾールは既存薬の特徴である、安全、安いという特徴を持ちます(図8)。既存薬再開発の手法が様々な疾患に利用されて、シロスタゾールやサリドマイドのように、安く、よく効く、古くて"新しい薬"がこれからも提供されることでしょう。医薬品は快適な生活をもたらし、子供たちを救い、歴史をも変えてきました。新薬開発、そして既存薬再開発により見いだされた薬が我々の人生を豊かなものにする事を願います。
認知症や記憶障害は患者のみならず家族や社会に大きな負担を強いています。シロスタゾールは、我々や他のグループの研究結果をもとにして、軽度認知症に対する治験が2015年から始まりました。当センターでも治験を行っています。