高齢化社会を迎え、加齢依存性に発症する神経疾患を患う患者さんが今後増えていくと予想されています。これらの疾患を対象に多くの研究が精力的に進められていますが、有効な治療法が確立されていない疾患が多いのが実情です。病気を克服していく為には患者さんの脳組織を用いた研究が欠かせません。今回は、高齢者ブレインバンクの疾患克服に向けた次世代を見据えた取り組みを紹介したいと思います。
年齢を重ねるにつれて増える神経疾患として、アルツハイマー病やパーキンソン病が挙げられます。アルツハイマー病は記憶や思考能力が徐々に障害される病気で、高齢者の認知症としては最も一般的です。アルツハイマー病では脳の中に老人斑や神経原線維性変化と呼ばれる異常な蛋白からなる構造物が蓄積します(図1)。老人斑はアミロイドβが脳の中で斑状に蓄積してできるもので、大脳の新皮質と呼ばれる発生学的に新しい領域から、記憶を司る海馬領域、さらには脳幹や小脳へと脳全体に拡がっていきます。正常の脳ではアミロイドβの沈着はみられません。図に示すような中心部の芯(コア)を取り囲むような円型の構造物が老人斑です(図1(左)矢印)。神経原線維性変化は、タウ蛋白が神経細胞の中で変性、凝集してできるもので、神経細胞の中に炎状の線維性構造物として認められます(図1(中央)矢印)。神経原線維性変化は老人斑とは異なり、海馬領域から新皮質へと拡がります。アルツハイマー病では先に老人斑が脳内に拡がりますが、それだけでは症状には繋がらず、神経原線維性変化が拡がるにつれて、認知症の症状が現れると考えられています。
パーキンソン病は手足の震えや筋肉のこわばりが生じ、姿勢保持が難しくなるなど、運動の調節が障害される病気です。パーキンソン病では神経細胞内にレビー小体とよばれる特徴的な凝集体ができ、病気の発症に関係すると考えられています。レビー小体は、神経細胞内に認められる球状あるいは楕円状の凝集体です(図1(右)矢印)。レビー小体が運動を調整する領域のみならず、脳の中で広く拡がると認知症の原因になることが解っています。高齢者の神経疾患は時間をかけて進行し、いくつかの要因が重なっておこることが多く、病態は複雑です。
患者さんを詳細に診察し、様々な検査を組み合わせて、神経細胞にどのような変化が起こっているかを評価することで、神経疾患の臨床診断が行われます。病院にかかった時に、医師から"あなたの病気は、○○病だと考えられます。"と伝えられるのが臨床診断名です。検査方法の進歩により、神経疾患の臨床診断の精度は向上していますが、剖検により脳を病理学的に解析しないと、実際に脳の中でどのような病変が生じているかを正確に知ることはできません。病理解剖に同意いただいた患者さんの脳は、固定した後薄い組織切片にして、老人斑、神経原線維性変化やレビー小体といった異常な構造物がないかどうかを顕微鏡で観察します。このような異常な構造物が、脳のどの部分にどれ位拡がっているかを正確に評価することで、アルツハイマー病あるいはパーキンソン病といった最終的な病理診断が確定します。脳の中では様々な機能をもつ神経細胞が特定の場所に分布し、互いに連動しながらその機能を発揮しています。神経疾患の病理診断を確定するには、どの部分の神経細胞が、どのような変化を起こしているかについて全体像を把握する必要があるため、剖検による脳全体の評価が必須です。
剖検によって病理診断を確定することにより、生前に得られていた臨床診断について再評価することができます。高齢者の方は長い病歴を持つことが多いですが、いつどのような変化が脳内で起きたのかを、臨床経過や検査所見を参考に、病理学的な所見と対応させながら検討していきます。患者さんの経過と病理診断を対応させて慎重に検討することは、今後より早期に、より正確に病気を診断する方法を見つけていく事に役立ちます。神経疾患の中には、早期に対応することで症状の進行を抑えることができる疾患もあります。現在は治療が難しい疾患も、今後治療法が見つかる可能性があります。神経細胞は障害が進んでしまうと機能を回復することが難しいため、病気を早期に正確に診断することは、高齢者の神経疾患を克服していく為にとても大切です。東京都健康長寿医療センターでは病院と研究所が併設されており、両者が密接に連携しながら神経疾患の診断をより進歩させる為の努力を続けています(図2)。
また、正確な病理診断が行われた脳組織は、病気の克服をめざすための貴重な研究試材として国内外の研究者に提供されています。病気を研究するためには様々な方法があり、実験用の細胞や動物の疾患モデルが広く用いられています。これらの研究手法によって様々な成果が得られていますが、病気に関わる真の原因を見極めていくためには、患者さんの脳を用いた研究を併せて行っていく必要があります。死後脳研究で得られた研究成果は、患者さんの病態を真に反映したものであり重要な意義を持ちます(図2)。
神経病理研究室では、剖検の際に脳の半分を病理診断の為に固定し、残り半分を疾患研究の為に凍結し、いずれも高齢者ブレインバンクにて保存、管理しています。固定された脳は、国際的な基準に従って詳細に解析され病理診断が確定します。解析によって得られた病理診断名や病変の拡がりの程度はデータベース化して蓄積され、臨床病理学的な検討や疾患研究に活用されます。
凍結保存された脳は、脳内でどのような遺伝子変異が起こっているか、どのように異常な蛋白が凝集するかなど、病気の成り立ちにかかわる変化を主に生化学的な手法を用いて研究するために用いられます。神経病理研究室でこれまでに病理診断された症例は8000例を越え、部分凍結脳を含めると約2000例の脳が凍結保存されています。高齢者ブレインバンクで管理されている脳組織は、国内外の研究機関からの研究申請に基づき、適切な倫理審査を経て提供され疾患研究に活かされます。
蓄積された脳リソースを元に、高齢者の重要な認知症の一つである
高齢者ブレインバンクでは、献脳のご意志を事前に登録をしていただくドナーシステムを構築しています(図3)。ドナー登録者が亡くなられた時に、ご遺族の同意を得て病理解剖を行い、死後脳を医学研究の為に高齢者ブレインバンクにて保存させていただきます。ドナー登録はご本人の自由意志に基づくもので、いつでも撤回することができます。事前登録のシステムについては高齢者ブレインバンクのホームページ(http://www2.tmig.or.jp/brainbk/)をご参照ください。