第176号

救急科のご紹介

栄養サポートチーム(NST)を紹介します

健康長寿医療センターの渋沢栄一銅像について

救急科のご紹介

救急科 部長 青景聡之(あおかげとしゆき

救急科に赴任しました

皆様、こんにちは。4 月より東京都健康長寿医療センター救急科の部長を務めさせていただくことになりました青景聡之と申します。前職の岡山大学では救命救急センターにて勤務しながら、高齢者救急医療学講座の一員として高齢者救急の課題と解決策について研究してきました。このたび、東京都健康長寿医療センターで働けることを非常に嬉しく思います。

近年、医療の高度化・専門化が進む一方で、各専門分野の間に空白が生じています。それに対して、救急搬送の数は人口減少にもかかわらず増加の一途をたどっています(図1)。このような状況において、分野という垣根を超えて対応できる総合的な問題解決能力を持つ救急医の需要は高まるばかりです。私は救急医療において、迅速な対応(Speed)、患者や家族への共感(Sympathy)、科学的な思考(Science)が重要だと考えています。

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救急外来は、社会全体を反映しており、最先端の医療を必要とする患者から、受け入れ先のない社会的弱者まで、多様な患者が訪れます。私たち東京都健康長寿医療センター救急科は、地域の多様なニーズに応えるべく、引き続き地域貢献に努め、皆様の期待に応えられるよう努力してまいります。

当センターの診療体制

当センターの診療体制は、一般救急においては二次救急病院(入院や手術を要する重症患者を受け入れる救急医療を提供する病院)であり、そのほか循環器内科、心臓血管外科、脳神経内科、脳神経外科がCCU ネットワーク、大動脈スーパーネットワーク、脳卒中ホットラインからの重症急患を受け入れています。高齢者専門病院という特性上、救急搬送患者数の約70%は70 歳以上です。急患の内容は急病や小さな事故によるケガ、突発的な発熱など、遭遇頻度の高い疾患・外傷が多いです。私たちの目指すのは、単に命を救うことだけではなく、患者様一人一人の背景に寄り添い、最適な医療を提供することです。そのためには、救命だけでなく、終末期医療を含め、治療の選択肢を幅広く検討していく所存です。

救急外来の診療体制

 救急患者の対応は救急外来で診療を行います。診療は、救急科医師および各科救急担当の医師が行っています。夜間休日は、病院全体当直勤務を行っており、内科系医師1 名、外科系医師1 名、研修医・専攻医 2 名で担当します。病棟内には循環器当直医・脳神経当直医が常に1 名おり、相談ができる体制をとっています。緊急血管造影・緊急手術などにも即座に対応し、術後は集中治療室で管理を行います。

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救急外来 受診予約方法
急患は24 時間電話で受け付けております。
受診を希望される際は必ずお電話にてお問い合わせください。   
電話 03-3964-1141(代表)                 
詳細は以下URLをご一読ください。
https://www.tmghig.jp/hospital/outpatient/emergency/

栄養サポートチーム(NST)を紹介します

NST 専任管理栄養士 松本 あい

栄養サポートチーム(NST)という言葉を聞いたことはありますか?
栄養サポートチームとは、患者さんに適した栄養管理を提供するために、医師、歯科医師、看護師、薬剤師、管理栄養士、臨床検査技師、言語聴覚士等で構成された栄養管理の専門チームになります。

illust1当センターの栄養サポートチームは、入院中の患者さんで「なんらかの原因で食べることができない」「食べる量が急に減ってきた」「体重減少や栄養状態が悪い」「大きな褥瘡がある」など栄養管理の心配がある患者さんに、週1 回、栄養状態を評価し、適切な栄養投与方法を主治医へ提案し、栄養状態、全身状態の改善を支援する活動を行っています。
当センターの栄養サポートチームの特徴の一つは、多科の医師で構成され、週ごとに担当する医師が交代しながら、それぞれの専門性を活かした提案が出来ることです。メディカルスタッフと一緒に多方面から意見を出し合い、主治医へ栄養療法の提案をしています。

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回診の様子

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カンファレンスの様子

第2の特徴は、高齢の患者さんが多いため、摂食嚥下評価の依頼が多いことです。(次ページ参照)言語聴覚士がメンバーの中心となって嚥下評価を行っており、食事提供可能な場合は管理栄養士と安全に食べられる食事内容を検討しています。
また、看護師は摂食嚥下障害看護認定看護師の資格を取得しており、経口摂取を行う機能評価に留まらず、患者さんにあった介助方法など食環境の提案も行っています。

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第3の特徴は、歯科医師がメンバーにおり、お口の状態や入れ歯の具合の確認も行い、必要に応じて歯科受診の提案をしています。
また、食事が十分な量を食べられない患者さんの場合は、管理栄養士が食事量の調整や少量で効率よく栄養がとれる補助食品の提案を行います。
更に薬剤師が点滴の種類や安全に投与するためのポイント、臨床検査技師が血液検査の結果から患者さんの状況の説明や検査項目の提案を行うこともあります。
疾病治療を行う上で良い栄養状態を保つことは大切です。口から食べることは勿論ですが、点滴や経腸栄養剤も併せて色々な方法を多職種のチームで検討し、主治医へ提案できることが栄養サポートチームの強みです。
栄養サポートチームの介入は主治医の指示が必要です。入院中の栄養管理のことで心配なことがありましたら主治医へご相談下さい。

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健康長寿医療センターの渋沢栄一銅像について

養育院・澁沢記念コーナー 顧問医 稲松孝思

東京都健康長寿医療センターの敷地内に大きな渋沢栄一の銅像があります。新一万円札の肖像になる経済人の渋沢の銅像がここにある理由と、その数奇な運命についてお話しします。

1.「養育院」と渋沢栄一について

 当センターの歴史を辿ると、1872(明治5)年に本郷の加賀藩邸跡で産声を上げた救貧施設、「養育院」に行き着きます。翌年に上野の護国院の一部を買い取り、増改築して恒久施設としました。今の東京芸術大学美術学部のところです。「養育院」黎明期のことは別稿に譲りますが、生みの親が大久保一翁、育ての親が渋沢栄一と言えます。明治7 年から渋沢栄一は、旧知の一翁から共有金の運用を託され、「養育院」の運営に関与しますが、以来、委任経営による養育院の維持、分別処遇施設の独立など、昭和6 年に亡くなるまでの56 年間、「養育院」の維持発展に尽力し、このことが、社会事業家・渋沢栄一を育てることになります。

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2.板橋の渋沢銅像設置

1923(大正12)年の関東大震災後、大塚に本院を置いていた養育院は、板橋に移設工事進行中でしたが、急遽引っ越します。その後渋沢栄一の功績をたたえる銅像建設が計画されましたが、本人は固辞していました。『終始御念頭を離れざる養育院の構内に、百年の後も永久にこれを守護せんとする子爵の魂魄のため定住所をお作り申し上げる』との説得に、ようやく承諾しました。市民650 余名の寄付が集まり文展・帝展の審査員も務めた彫刻家の小倉右一郎に制作を依頼しました。高さ16 尺(4.3 m)、方20 尺(5.4 m)の花崗岩の台座に、高さ10 尺(3.75 m)、重量480 貫(1.8t)のフロックコート姿でソファーに座っているブロンズ像が作られました。立ち上がると大手町の日本銀行近くにある銅像(渋沢死後、朝倉文夫作)より背が高いと言われています。
小倉右一郎は上野の東京美術学校の卒業で、朝倉文夫、高村光太郎は同世代の卒業生ですが、同校は、以前養育院のあった場所に、1884(明治17)年に作られた学校です。小倉右一郎は、大正5 年に東京銀行集会所に喜寿祝の渋沢像を作ったことがありますが、1920(大正9)年に一年間パリでオーギュスト・ロダンに師事?(ロダンは1917 死亡)、帰国後この銅像を作っています。養育院の渋沢銅像はその影響を受けているのかもしれません。ロダンの言葉を紹介した高村光太郎も、東洋のロダンと言われる朝倉文夫も、ロダンには会えていません。

3. 渋沢おじさんの出征と戦災

 1943(昭和28)年ころ、戦時金属回収が推進された時、大手町の渋沢銅像は華々しく出征し、3月に鋳つぶされました。養育院の渋沢銅像も、12 月に出征の為、台から下ろされる写真が新聞記事となっており、コンクリ―ト代替え像が作られました。本体は交通事情などで出荷出来ず、地上に保管されていました。昭和20 年4 月13 日、米軍B29 の大空襲で、豊島・板橋区などの都民2400 人以上が死亡し、養育院も107 名の死者・行方不明者を出し、施設の90%が焼失しました。コンクリート代替像も黒焦げになりましたが、銅像本体はボイラー室横の防火壁の陰に置かれていたため温存されました。戦後の1957 年、存命の小倉右一郎監修で、銅像は復旧されました。以後、敷地の用途変更などで、数回引っ越しし、そのたびに、西を向いたり、南を向いたり・・・。

4.屋外銅像の酸性雨対策

銅像は黒いブロンズ色でしたが、酸性雨、ハトの糞などで汚れや痛みが目立つため、2002(平成14)年に塗装工事が行われました。エポキシ樹脂、アクリル・ウレタン、フッ素樹脂の3 層に保護膜が塗られ、鳩の糞が目立たない灰色になりました。

5.渋沢銅像は板橋区の‶登録文化財"に!

2013(平成25)年、東京都の組織改正で、都条例の「養育院」の名前は無くなり、地方独立行政法人・東京都健康長寿医療センターとなり、現在の新施設が建設されました。この時、旧職員による「養育院を語り継ぐ会」が作られ、養育院本院の碑が作られました。また、寛永寺から移設されていた德川家光・家斉墓前の石灯篭と、渋沢銅像、よろこびの像(鈴木俊一都知事揮毫)移設などにより、ひろばが再整備されました。2014(平成26)年、板橋区教育委員会により登録有形文化財(歴史資料)に登録されました。オトメツバキ、各種のサクラ、タニウツギ、アガパンサスなどの季節の花、よろこびの像などに囲まれて、「養育院」の渋沢銅像は、センターの行く末を見つめています。

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なお、黎明期の養育院、本院跡碑、石灯籠、銅像の詳細などは、「櫻園通信」に記載しています。
「櫻園通信」はこちら▼
https://www.tmghig.jp/hospital/facilities/youikuin-shibusawa/