蔵本先生は1992年から第3代の老人医療センター病院長となられ、老年医学会の理事もつとめられていました。
当時私は万年の幹事で理事会や各委員会の裏方事務をしておりました。先生はいつも穏やかで、「紳士」とはこのような方であろうという方でした。第36回日本老年医学会総会では、圧倒的な例数の循環器臨床病理の成績を披瀝されました。当時私は米国留学から帰ってきて、今後の方向性も模索しているころで、社会問題にもなったMRSA感染制御に関し「感染症の高齢者におけるメチシリン耐性ブドウ球菌 (MRSA) に対する局所療法の長期成績」とロボット研究の走りでもある「マルチチャンネル排尿センサによる老年者尿失禁の管理-患者のQOLと介護労度の接点をめざして」という2題の筆頭発表者でした。
縁もあって一昨年から健康長寿医療センターに奉職していますが、蔵本先生の築かれた「落ち着いた学術的度量、知らざるを恥じる」という養育院からの風土を大切にしていきたいと思っております。 合掌
東京都健康長寿医療センター 理事長 鳥羽研二
当院名誉院長蔵本築博士が令和3年3月26日、享年93歳老衰のためご逝去されましたのでここに謹んで報告申し上げます。
先生は、昭和27年に東京大学医学部をご卒業になり、同大学第三内科入局後、群馬大学医学部、浴風会病院などの医員を経て、昭和35年にフルブライト留学性として米国ニューヨーク州バッファロー大学に留学されました。
帰国後、東大医学部助手に復職後、昭和47年に当院の前身である東京都養育院付属病院研究検査科部長としてご着任されました。昭和50年には副院長、平成2年4月には名称変更となった東京都老人医療センター院長にご就任され、外来処方、診療予約システムにおけるコンピュータ導入や大規模な全病棟改修工事という難事業を滞りなく遂行されました。文字通り、高齢者医療施設としての新病院の創造の時代を村上元孝初代病院長とともに歩まれ、当院の運営・発展に多大な貢献をされました。
定年退職後の平成5年から当院顧問、平成9年には名誉病院長にご就任され当院の発展を暖かく見守っていただきました。また、平成6年には第36回「日本老年医学会総会」会長を務められ、会長講演は「加齢と疾病」と題し、21年間のセンターの5000例の剖検と臨床像と対比され、疾患の加齢による変化と特徴的な病態を示されました。更に、剖検率からみた診断率を示し、包括的な老年医学の必要性を強調され、日本の老年医学の発展に大きな足跡を残されました。
ここに哀悼の意を表し、心からご冥福をお祈りいたします。
東京都健康長寿医療センター センター長 許俊鋭
当院蔵本築名誉病院長のご逝去の報に接し、悲しみと大いなる喪失感を禁じ得ません。ここに謹んで哀悼の意を表します。
先生から多くの事を教えていただいた者の一人として、先生のご業績と思い出を記してみたいと思います。
先生は1971年(昭和47年)に当院の前身である東京都養育院付属病院の研究検査科部長として就任されて以来、副院長、院長、顧問、名誉病院長として長年にわたり当院の発展に貢献されました。
先生は、一貫して高齢者循環器疾患の病態について臨床病理および生理学的側面から解明することをライフワークとされておられました。 毎週金曜日午後に開催されるオルガンコントロールには病理部長が剖検例のマクロ所見を解説されるのを几帳面にメモされ、そのデータを循環器科の医師が作製した臨床サマリーと照合して膨大なデータベースを作成された。それらのデータを元に次々と論文を発表され、老年者の動脈硬化性疾患には高血圧、高コレステロール血症の関与が大きいことを臨床病理学の立場から立証された。
生理学の立場からも、隣接する老人総合研究所の生理学研究部門において冠循環の動態についての実験を続けておられ、また色素希釈法を用いての高齢者の血行動態の研究を地道に行われました。
それらの研究成果の一つとして特筆すべきことは、当時まったく未知の分野であった高齢者高血圧について収縮期血圧160mmHg以上では、明らかに心筋梗塞や脳梗塞が多くなることを臨床病理学の立場から立証されたことです。さらに世界に先駆けてプラセボを対照とした比較試験をおこない高齢者高血圧治療の有用性を実証され、またみずから立ち上げた臨床試験であるNICS-EH研究では、Ca拮抗薬と降圧利尿薬のわが国初の二重盲検比較試験を行い、両薬剤同等に有用であるとの結論を導き、世界的にも高い評価を得ました。
また教育面では、長崎大学や金沢大学などの大学から留学した多くの若手医師が先生の指導のもと、学問と診療に対する真摯な姿勢を学び、郷里に戻ったのち今も地域医療に貢献しています。
私も蔵本先生の驥尾に付して、高血圧の勉強をつづけることができ今日にいたっていますが、先生から学んだことはあまりに多く、感謝以外の言葉がみあたりません。
先生の当院への長年のご貢献に感謝申し上げるとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます。合掌
東京都健康長寿医療センター顧問 桑島巖
東京都健康長寿医療センター名誉院長蔵本築先生が令和3年3月26日にご逝去されました。
蔵本先生は、当センターが1972年に開設されたとき東京大学医学部第3内科より研究検査科部長として赴任され、以後副院長を経て平成2年から5年まで院長を務められました。
病院CPC、CC、剖検例のオルガンコントロール、学会予行、循環器内科のカンファレンス、読書会など、ご多忙なスケジュールの中、欠かさず出席され、若手医師を指導するため熱心に質疑、討議に加わっておられたことを懐かしく思い出します。蔵本先生は、ご自身の研究でも、高齢者の高血圧、心不全などの分野で多くの業績を残されています。これらのご努力は、開設間もない病院を一流の臨床力を持った病院に、また研究もしっかり行う病院に育て、かつ若手医師を育てようとされていた先生のご意思の表れであったのだろうと思っています。
平成6年には第36回日本老年医学会学術集会の会長を務められるなど、わが国の老年医学の発展にも多大な貢献をされました。
当センター、わが国の老年医学への多大な先生のご貢献に改めて感謝申し上げるとともに、心から先生のご冥福をお祈り申し上げます。
東京都健康長寿医療センター名誉理事長 井藤英喜
2002年に東大から東京都老人医療センターに赴任して以来、医局の歴代院長先生の写真の中に蔵本築先生のお顔を拝見してきました。着任前より「センターの循環器が有名なのは、村上元孝先生、蔵本築先生の貢献が大きい」と聞いておりましたが、桑島巌先生からは、「蔵本先生は、当時の日本では極めて珍しい高齢者高血圧に関するランダム化二重盲検試験NICS-EHを主導され、世界的なメタ解析グループBPLTTCにその仕事が引用された」と聞きました。その後、蔵本先生と直接お話ができたのは東大循環器内科10周年記念の会であったと記憶しています。
先生の残された膨大な剖検データは今も全く古びておらず、生活習慣病のリスク因子と動脈硬化との関係を病理の沢辺元司先生(現東京医科歯科大学教授)が再解析して論文化する際に、1990年頃蔵本先生と私の同級生の黒尾誠君(自治医科大学教授)の書いた論文を参考にさせて頂きました。また、私の部屋には先生の残された3000例以上の剖検例の、スコア化された心臓病理所見と心電図のデータが保管してあるのですが、それを解析して、高齢者でも診察室血圧値140mmHg以上で脳梗塞、心筋梗塞が有意に増加するという結果を老年医学会のシンポジウムで発表させて頂きました。
奥様の治子さまのご入院を契機に、しばらくお二人一緒に私の外来に来られていましたが、「高齢者の変性型の大動脈弁逆流症はあまり進行しない」など、現在の心エコー全盛の時代より多くの知見を剖検の時代に持っておられたことに感服しました。先生には特にご病気はなかったのですが、食べても太らないことが先生の悩みの種でした。広島に原爆が落ちた翌日に二人の妹さんを探しに爆心地に入られたそうで、それが原因でしょうかと話されていました。先生が広大附属高校のご出身で、私が附属福山高校であったためそんな話をしていただけたのかもしれません。
まだまだ教えていただきたいことは沢山あったのですが、歴代院長先生の写真の中のお顔を見ると、それは自分自身で研究せよと叱咤激励されているように感じます。蔵本築先生のご冥福を心よりお祈りいたします。
東京都健康長寿医療センター 副院長 原田和昌
名誉院長蔵本築先生のご逝去に当たり、謹んで哀悼の辞を述べます。
蔵本先生は1992年から東京都老人医療センターの第3代の院長になられ、病院の発展に大いに貢献されました。院長回診では、いつも穏やかな雰囲気で、若い先生を熱心にご指導されていたことが印象に残っています。
私にとって忘れられない蔵本先生との思い出が2つあります。1つは1993年にブダペストで開催された第15回国際老年病会議のことです。その当時は、学会前に医局で多くの先生が集まり、発表の予行がありました。私はマクロファージの泡沫化の加齢変化という演題を発表しましたが、既に書いていた論文の文章を抜粋して、だらだらと発表してしまいました。その時、先生は何もおっしゃらなかったのですが、たまたま行きの航空機がご一緒になり、乗り換えの空港でラウンジに同伴させていただき、いろいろとお話しを伺う機会を得ました。蔵本先生が米国に留学され学会発表されたときに、指導教授が蔵本先生の発表原稿をテープに録音して下さり、先生はそれを聞きながら何度も練習されたことや、泊まっていたホテルで他の先生の練習する声が聞こえてきて驚いたことなどを話して下さいました。学会の発表は聴衆が理解できるように入念に準備して臨むべきだ、ということを教えていただいたように思います。
2つ目は蔵本先生に勧められて2013年のソウルでの国際老年病会議でシンポジウムを企画した経験です。その前年に当センターで同窓会が開催されたように思います。その会で、皆で談笑していた時に、突然、蔵本先生がいらして、学会の提案シンポジウムに応募するようにおっしゃいました。高齢者糖尿病の治療をテーマで応募し、採択され、韓国、台湾、日本の4人の先生に演者をお願いし、私が司会を務め、シンポジウムをなんとか無事に終えることができました。蔵本先生のお言葉があって、貴重な経験ができたと感謝しております。
蔵本先生の医師、研究者、教育者として多くの先生を導いた一生は尊敬の念に堪えないとともに、今後、当センターの指導医がめざすべきものであると感じています。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
東京都健康長寿医療センター副院長 荒木厚
蔵本築先生は東大病院では第三内科(主任冲中重雄教授)の循環器グループに所属し、私の一年上であった。したがって診療、研究などで行動を共にして親しくしていた。研究では、循環器グループのボスで金沢大学の教授であった村上元孝先生に師事されていた。村上先生は東京都老人医療センター(当時養育院附属病院)の初代病院長であった。蔵本先生は村上先生の指示でセンターに勤務し、その3代目の病院長になった。だが定年になっての後継者に私を指名されたのである。これには驚いた。卒業年次は1年しか違わないのだ。当時私は高知医大(現高知大学医学部)老年病科教授であと1年で定年であった。
蔵本先生の話では、64歳で病院長に就任すると1年で定年になるが、その後は適当な後継者がいないという理由で、当局(東京都立であった)に申請すれば3回は更新できる。つまり4年間は勤務できるということであった。私は64歳で東京に帰ることができた。東京でのそれからの人生は実りあるものになった。こうした点で私は蔵本先生に恩義がある。
村上先生も蔵本先生も広島の出身である。蔵本先生は被爆の過去があった。先生の専門は高齢者高血圧である。真面目で常に勉強されていた。若い時、二人でドイツ、オーストリアを旅行した時の楽しい記憶がある。突然逝かれて、なにか寂しい。ご冥福を祈ります。
元東京都老人医療センター名誉院長 小澤利男
昨年まで葉書での近況往復の際は、先生のしっかりした筆致を拝見しておりました。ところが桑島ドクターからご入院の報を聞きましたあと、急なご逝去が心残りでなりません。弟子としましては、よい仕事をした折に恩師から褒めていただくことを無上の喜びと考えておりましたが、ついに鳴かず飛ばずに終始してしまいました。
私は、1969年卒業後、1972年養育院付属病院内科に入りました。印象に残っているのは、蔵本先生との週1回の動物実験です。当初は途惑う事ばかりでしたがいつしかブレイクし、自分の夏休みを使って一人で嬉々として実験室に向かうまでに至っておりました。瀉血の肺うっ血改善の実験的研究は、後に急性左心不全救命処置として、臨床応用も行われています。
臨床では当初、生理検査室で色素希釈法検査の研究を命じられました。心臓疾患患者の心拍出量、心短絡量などを非観血的に測定する検査でしたが、自分には大きく進展させる力量がなく、困り切っておりました。 折しも、当時注目され始めたカテコーラアミン製剤ドブタミンに関し、この色素希釈法を用いた研究で論文を書かせて頂き、気持ちが楽になった事を覚えております。
今になって考えますと、先生はアルコールがお好きではなかったようです。
小グループで、一緒に二次会に飲みに行った記憶はありません。また、ある祝賀会でのことですが、若いドクター達にマイクを押し出され、歌の催促がありました。カラオケもなくきちんと歌う事が難しい時代でしたが、なんとシャンソンの"枯葉"を終わりまで見事に歌われました。いざという時には何でもこなせる芸達者な一面をおみせになりました。
養育院付属病院で修行の8年間は、医師として社会人として自分を形成するもっとも重要な年月であったと思います。身近でご指導を受けた事柄は、いまでも数限りなく浮かんできます。エピソードの一部を、おもいつくまま書きました。
1980年に私を福井循環器病院に送り出していただきましたが、その後50歳で開業、67歳で医師を卒業、5年前から福井市北方の北潟湖畔で過ごしています。
心からご冥福をお祈りいたします。合掌
元養育院付属病院循環器科 三船順一郎
東京の桜が満開の頃、療養中と伺っていた北野病院(埼玉県新座市)の院長服部明徳先生(元内科部長)より蔵本先生ご逝去の悲しいお知らせを頂きました。現在、私は北野病院のグループ病院に勤務しており、これもご縁と思います。
1972年4月に一般高齢者専門病院として新たにオープンしたセンター(当時の名称は養育院附属病院)には東大より多くの幹部医師が入職し、初代院長は私の母校の金沢大学内科教授の故村上元孝先生でした。同年5月、私は村上先生のご厚意により同級生とともに新卒で入職し、蔵本先生と初めてお会いしました。先生は、東大第3内科より研究検査部長に就任し、私の姉が同内科研究室事務にいたご縁で挨拶に伺いました。先生は柔和なお顔で緊張した新卒の私を暖かく迎えてくれました。
私は各科ローテート後、循環器科を希望し、直接先生の指導を受け臨床医として育てて頂きました。当時は断層心エコー法がまだ普及していない時代で、循環器検査は、心電図・心音図・心機図の記録判読、色素希釈法による心機能検査でした。特に先生が発案した運動能力の低下した高齢者に対するイソプロテレノール負荷心電図検査は、剖検例の冠動脈狭窄と一致し、大変有用でした。先生は東大にいたときから精力的に実験動物を使った生理実験をされており、隣接する老人研(老人総合研究所)で蔵本先生と同じ研究室から赴任された医長の松下哲先生、私の大学の先生の先輩でCCU主任の三船順一郎先生方と一緒に冠循環の実験助手をしました。普段は温和な先生ですが、実験の手順を誤ると厳しい指導を受けました。強心薬投与実験では血行動態測定後、心筋を切除し、松下先生とともに細胞内代謝活性を測定して私の学位論文としてご指導頂きました。
先生は剖検例の心臓病理所見と臨床所見の対比を丹念にされていましたが、CCUに従事した私にとって興味あることは先生が可逆性心筋梗塞という病態を提唱したことです(1979年)。DIC、輸血、肺炎などの感染症、脳梗塞を契機に一過性の心筋梗塞様心電図変化を示すも剖検例では、肉眼的に心筋梗塞はなく、冠小動脈に血栓が認められ、心エコー図で追跡できた例は初期の無収縮から左室壁運動が改善した。これは冠動脈・左室造影が行われていれば "たこつぼ心筋症" と思われます。"たこつぼ心筋症" は1990年に日本で命名されたので、その10年以上前に先生は心電図と臨床所見を鋭く対比したことになります。
先生は1993年センターの院長退任後、自伝「老年医学の道」を出版されました。今再度読み返すとその詳細な足跡から先生の真摯なお姿に感銘を覚えます。常に私達を温かく見守りご指導下さった先生に改めて感謝しつつ、ご冥福をお祈りいたします。
平成の森・川島病院院長(元東京都老人医療センター循環器科部長)坂井誠
先日桑島巌先生から蔵本築先生の訃報をいただいた直後に、親友の服部明徳先生からも連絡をいただきました。聞くと、この1年間ほどは体力の低下が進まれ、服部明徳先生の病院で2021年3月28日に息を引き取られたとのことでした。
私は昭和54年長崎大学医学部を卒業し、長崎大学第3内科(現循環器内科)に入局し、橋場邦武教授から初期教育を受けました。私は現健康長寿医療センターには、2回勤務させていただきました。1回目は医局からの国内留学として、養育院附属病院時代の昭和55年から3年余り、松下哲先生のもとで循環器科医員として勤務しました。長崎に帰った後、松下哲先生のお世話で再上京し、東京大学の永井良三先生の研究室で6年間遺伝子の研究をさせていただきました。第2回目の勤務は、老人医療センター時代で、松下哲先生から小澤利男院長が計画されているCGA病棟の手伝いをするようにとの御指示をいただき、東大の後、平成6年から平成14年まで、研究検査科医長兼CGA病棟メンバーとして8年間過ごさせていただきました。私の医師としての基礎は養育院附属時代に形成され、老人医療センター時代に育てられたものです。そう言う意味で養育院附属病院/老人医療センターの時期は私の人生の中で最も重要なものです。
蔵本築先生との思い出は第1回目の養育院附属病院の時代になります。初めての東京という街での生活は新鮮な驚きの連続でした。また病院の文化も長崎とは全く異なり、カルチャーショックを受けました。例えば、長崎の医局では先輩後輩の序列があり、名前は呼び捨てでしたが、最初に蔵本築副院長から"中原先生"と言われたのには驚きました。東京では医師であれば上下に関係なく、普通に"先生"付けで話していることが不思議でした。また養育院付属病院では頻繁に症例カンファレンスや剖検カンファレンスが、病院全体の統一行事として行われ、老年病医学会の学会予行は数日にわたるほどの演題数がありました。村上元孝院長や蔵本築副院長のご指導のもと、やる気に満ちた多くの医長やスタッフが努力することが普通の毎日であったことに驚きます。医療、研究に止まらず、病院と言う生き物の大組織をうまくコントロールされていたことに敬服します。私は長崎に帰った後、長崎医療センターの診療部長や副院長を経験し、現在は地域の老人病院の院長をしておりますが、この時の養育院付属病院の時代のような雰囲気を院内に作ることは大変難しいことを気付かされました。時代の流れもあるかも知れませんが、養育院付属病院時代の雰囲気は実に貴重で、それを実感したことはとても有意義だと思います。当時の理想的な病院であったと思います。
添付の心電図所見用紙は、古い循環器の先生方には懐かしく映ると思います。蔵本築先生と個人的な接触は、毎日夕方に開催される心電図の読み会でした。現在の心電計では自動診断で所見が出てきますが、当時はそのような機能はありません。循環器の医師は夕方循環器外来に集まり、その日に記録された心電図の診断を心電図所見用紙に記入し、その用紙を添付して病棟に返却するシステムとなっていました。夕方循環器外来に集まった医師は、積み上げてある心電図から適当に選んで所見用紙を埋めていきます。所見を順番に埋めていくと心電図全体をくまなくチェックできて、自動的に診断にたどり着くようになっています。記入した心電図所見は、蔵本築先生をはじめ、杉浦昌也先生、上田慶二先生、松下哲先生、大川眞一郎先生など、高名な循環器の先生方が、直接赤ペンで添削してくれます。循環器の初心者としてはできるだけ赤添削をされないように努力しました。この所見用紙はとてもよく出来ていて、私もその後さまざまな心電図教育の時に使わせてもらいました。
心電図所見を読む会は心電図を勉強するだけではなく、普通では話すことも出来ないような上の先生とのコミュニケーションが出来ることもメリットでした。蔵本築先生はいつでも気さくに丁寧に説明をしていただきました。心電図所見には一部養育院付属病院独自のものがありました。I度房室ブロックは一般にはPQ>0.20秒ですが、養育院付属病院ではPQ>0.22秒としていました。高齢者では房室伝導に多少の遅れがあるのが標準とのことでした。また所見用紙のなかに肺性Pと僧帽性Pの後に(気味)とありますが、これは一般的ではなく、ボーダーラインの症例が多かったために追加されているものだと思います。蔵本築先生がよく、「これは"気味"だね。」と言いつつ丸をつけておられたのを思い出します。
私が長崎に戻ってからは蔵本築先生とお会いするのは学会場や同窓会会場だけでしたが、お会いすると、「おう、元気?」とにこやかに声をかけていただいていました。ここしばらくはお会いする機会もなく過ごしておりましたが、突然の訃報を受けて本当に驚きました。やさしい笑顔が忘れられない先生です、安らかにお休みください。
和光会 恵寿病院院長(元東京都老人医療センター研究検査科医長) 中原賢一