元気を取り戻す(その10)
私の一冊 麻雀放浪記、阿佐田哲也著
色川武大という純文学のペンネームで怪しい来客簿で直木賞受賞
数年前、副鼻腔炎の手術で入院した時、先任の総長から「退屈凌ぎに」といって渡された本が「居眠り先生」であった。著者の伊集院静が先日亡くなった。一度訪れたことがある、カリフォルニアの「シャルドネカントリー」の描写がほぼ遺稿となった。
居眠り先生では、薬に頼り、博打好きで、しかし心の底奈落まで寄りそってくれる「居眠り先生」は伊集院静の生き様そのもので、居眠り先生は人生の大先輩かつ兄貴分だっただろう。居眠り先生こそ阿佐田哲也である。
私は乱読で、特に好きなジャンルはなく、一年に数冊しか読まないときもあれば、日に二冊読むなど情緒不安定型読書家である。ただ、同じ本を2回読むことはこれまで極めて稀であった。最近は、買って読んだ本を途中から思い出して二度買いを後悔したことがあり、もの忘れの初期症状かと心配している。数少ない数回読みなおした本の一冊が麻雀放浪記で、5回以上は繰り返し読んだだろう。お陰で、大体の話を説明できるほどである。
場面は戦後の焼け跡の御徒町近辺かと思われるところの、露天のチンチロリン博打場から始まる。阿佐田哲也の青少年期を彷彿させる「坊や哲」が登場し、沸騰する博打場で、勝負の「あや」を学んでいく。銀座のママと麻雀との出会いと交情、天才雀士との対戦など息をもつかせぬストーリー展開は、役満を和了って突然死した「出目徳」を皆で下水に蹴転がして去っていくところで、青春編は終わる。麻雀は勝者と敗者しかいないが、4人の持ち金は総額で増えない。すべて博打は胴元が最終的に儲かり、参加者は次第に持ち金を減らしていくゲームである。この学生時代に熱中した、あまりに人生と似すぎた麻雀というゲームは、経済発展の頂点を過ぎた日本の行く末とも重なる。本小説は博打小説ではない。見かけが悪人に見えるが極めて古い善人たちのラプソディーであり、どのような環境でも強靭に生き抜いている「焼け跡派の人々」の偉人伝である。